MENU

所長のつぶや記

所長写真.jpg

秋も深まり日が暮れるのが早くなりました。窓から見える眉山が色づくのも間もなくと思います。

「日暮見ぬ十一月の道の辺に」(原 石鼎)

首都圏を中心に風疹患者が急増し問題になっていますが、もう一つ全国的に患者が増加している病気があります。性感染症の「梅毒」です。ペニシリンの登場で治る病気となったため「過去の病」と思われがちですが、毎年世界で推定1000万人程度の新規感染者を出しています。風疹による先天性風疹症候群と同様に、妊婦が梅毒に感染すると先天性梅毒が起こることがありますので、妊娠可能な女性は特に注意が必要です。

1493年3月コロンブス一行が新大陸を発見してスペインに帰国。その年、それまでなかった病気「梅毒」がスペインに広がりました。翌年にはイタリアで流行し、1495年第一次イタリア戦争でイタリアに侵攻したフランス軍に感染しました。その後、ヨーロッパ中に拡大していきます。フランスではナポリ病、イタリア病と呼び、イギリスやドイツではフランス病、ポーランドではドイツ病、ロシアではポーランド病、イタリアやオランダではスペイン病、ポルトガルではカスチリア(スペイン東部の呼び名)病、トルコではクリスチャン病、ペルシャではトルコ病と呼んだそうです。漠然と感染ルートを表していると考えられます。

1498年、バスコ・ダ・ガマによるインド航路発見により梅毒はインドに及びました。1505年には中国に伝わったと推定されています。日本では室町時代後期1512年に梅毒患者の記載があります。種子島にポルトガル人が来る30年前にはすでに、梅毒は伝わっていたのです。当時は唐瘡(トウガサ)、琉球瘡(リュウキュウガサ)と言われていたようです。倭寇、博多や堺の商人らが明と交易が盛だった琉球から持ち込んだと考えられます。20年でヨーロッパの西端からアジアの東端まで広がったことになります。高速移動手段のない時代であったことを考えると驚くべき速さだと思います。人間の本能・欲望の凄さでしょうか。 

江戸時代になると街道沿いに宿場が発達し、旅人をもてなす遊女を置くようになりました。そして、一般民衆、町民に梅毒が性病として広がりました。杉田玄白は患者千人のうち七、八百人が梅毒であったと記載しています。また江戸市中の墓の人骨を調査した結果、54%に梅毒の変化がみられたという報告もあります。梅毒は人々の間に蔓延し、最も馴染みのある病の一つになりました。

梅毒は皮膚病変が楊梅(ヤマモモ)の実に似ていることから楊梅瘡と呼ばれ、また体内の黴(カビ)が原因との考えから黴瘡、黴毒(バイドク)とも言われていました。それが梅毒と書かれるようになったようで、梅とは関係ありません。

1948年には梅毒患者は22万人を超えていましたが、ペニシリンが登場して患者数は激減しました。1967年(約11,000人)、1987年(2,928人)をピークとした流行が2回ありましたが、その後は年間500-900人で推移していました。ところが2013年に1200人を超えてから毎年増加しています。昨年は5000人を超えました。今年は6000人を超える勢いです。この現状を知って欲しいと思います。一人一人が注意をすることで感染は防ぐことができます。

1948年、東京大学病院小石川分院で輸血による梅毒感染事故が起こりました。当時欧米では輸血用の血液は血液銀行から供給される保存血液が使用されていましたが、日本には血液銀行がなく枕元輸血注1が行われていました。梅毒の原因菌であるトレポネーマは4℃、72時間で死滅しますので、血液銀行があればこの事故は防ぐことができた可能性があります。事態を重く見たGHQは輸血対策を講じるよう政府に命じ、全国に血液銀行が設立されました。しかし、これらのほとんどが民間の営利目的であったため多くの問題を生みました。その後、紆余曲折を経て、現在の安心、安全な血液製剤による輸血が行われるようになりました。我が国の輸血用血液製剤はすべて善意の献血から造られています。

献血とは、健康な人が、輸血が必要な顔の見えない誰かのために、無償で血液を提供することです。献血によって助かる命があります。皆様のご協力をお願いいたします。

平成30年11月吉日

注1:注射器で採取した血液を、感染症検査等を行わずそのまま輸血すること。現在、日本赤十字社では感染症検査として、B型肝炎、C型肝炎、梅毒、成人T細胞白血病ウイルスの検査が陽性であった場合に、通知を希望される献血者の方に結果をお知らせしています。

参考文献

1.日本梅毒史の研究 福田眞人・鈴木則子編

2.人類と感染症との闘い 加藤茂孝 モダンメディア62巻5号(2016)

施設案内