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全国のありがとうの声

献血の尊さと重要性を自分の体で再確認することができました

三橋 淳治 さん

臨床検査技師 三橋 淳治 さん

【輸血のおかげで病気と闘うことができた】

2011年2月下旬に突然入院することになった私は、告知された自分の病名を未だに信じられずに居ました。

その病名は急性骨髄性白血病です。血液の癌とも言われる病気の一つで、成熟できない未熟なままの白血球が骨髄内で増殖し正常な白血球・赤血球・血小板の産生を阻害するため、治療を受けなければ貧血・出血・感染症等により数か月以内に亡くなってしまう病気です。

臨床検査技師として地域の総合病院に勤務し、今回の健康診断まで何の症状も無く至って健康に日常を送っていた私は、自分の検体とされる血液標本に白血病を疑う細胞こそ確認したものの俄には信じられないまま造血幹細胞移植も視野に入れた紹介状を渡され、直ちに専門医が勤務する大病院を受診することになりました。

自覚症状が無いのに検診検査で白血病が見つかるケースは、検査数値に明らかな異常がある場合を除き、臨床検査技師が白血球(好中球・好酸球・好塩基球・単球・リンパ球)の比率や大きさ及び他の検査データと照合して疑いを持った場合に、その血液標本を作製し顕微鏡で確認することで見つけ出されるのが殆どです。私の場合も、同僚である血液検査担当の技師が見つけてくれたのです。いわゆる早期発見でした。

【治療と輸血】

入院した血液内科では必要に応じて末梢血検査(白血球数・赤血球数・血小板数・ヘモグロビン量・ヘマトクリット値等)をしてデータを渡してくれましたので、自分の検査データの推移を知ることができます。一週間も経っていないのに入院前の検診検査では正常だった末梢血検査数値が、徐々に低値になってきていました。入院当初は採血が毎日でしたので、日ごとに減少してくる検査数値とたまたま流れ出た鼻血の粘性が水のように薄かったことで、職業柄ついに病名を受け入れざるを得ませんでした。もし検診で白血病が見つけられていなければ、病状の進行による何らかの自覚症状が確実に出現してくるのだろうと思いました。

3月に入り直ぐに化学療法(抗がん剤治療)が始まりました。化学療法は抗がん剤を投与することで骨髄での白血病細胞の産生を抑制する治療ですが、正常な赤血球や血小板の産生も抑制されてしまいます。ですから白血病細胞を含む白血球・赤血球・血小板の全てが軒並みに減少してきます。

抗がん剤投与から数日経つと、白血球(特に数の多い好中球)は寿命が短いので急速に減少してきます。白血球は細菌やウイルス等の感染から身体を守ってくれている細胞ですので、感染予防のために個室の準無菌室(面会謝絶)へと移動させられました。ここで白血球数の回復を待つのですが、当然ながら赤血球と血小板も減少してきます。赤血球のヘモグロビンは全身に酸素を供給していますし、傷口を塞ぎ出血を止める血小板が減少すれば小さな傷や衝撃による内出血にも充分に注意しなければなりません。

毎日のように自分の検査データは見ているので完全な貧血状態なのは分かっていましたが、ヘモグロビン量が8.0g/dL(男性の基準値 約13.0~16.0 g/dL)にまで減少していても特に自覚症状は無く、どの位まで下がって行くのかなぁ・・・・などとぼんやり思っていたところで、ついに輸血が始まりました。

奇しくも私は入職時に輸血検査の担当でしたが、当時の輸血検査は血液型を主体としたもので輸血する血液製剤もシンプルな製造法であったためか、時には重篤では無かったものの輸血後副作用も有ったと聞いていました。もちろん現在は検査技術の進歩や血液製剤精製法の向上によって輸血後副作用が激減し安全性が格段に高くなったのは知っています。

また、ある夜に大量出血の患者さんで呼び出され緊急輸血になったときには、赤十字血液センターから届けられた血液製剤を輸血検査と緊急輸血の同時進行で行ったり、血液が足りず夜通しで何度も追加の血液製剤を届けてもらい、徹夜で輸血検査や他の検査を繰り返し、出血した患者さんを救う手助けができた経験もあります。

しかし今回は私が輸血してもらっているのです。輸血開始後、暫くすると何やら頭がすっきりしてきました。さっきまで漠然と状況を受け入れてきただけでしたが、次第に意識が鮮明になってくるのを自分で感じたのです。そうです、貧血による酸素供給不足で思考能力が低下していた脳に輸血で酸素が届けられて本来の活動ができるようになったのです。以前、自衛隊のヘリコプターに体験搭乗させてもらった際も低酸素状況で簡単な算数が解けなかった経験がありますが、今回も同じ要因による現象だろうと思いました。

【退院】

準無菌室で輸血してもらいながら、自分の血球が産生されるのを待っている3月11日に突然大きな揺れが来ました。東日本大震災です。8階にある病室の端から端まで点滴台を握りしめて一緒に何往復もしながら、もしこの地震で病院が崩れでもしたら今の自分じゃ逃げ出すことは出来ないし病気が治る確証も無い。なかば覚悟する気持ちもありました。

しかし病院は地震により停電はしているものの、非常電源で空気清浄機は稼働させてくれていましたし、この病室に居る限り安心して治療を受けることができました。

翌日からも輸血は続きましたが、テレビやラジオから震災被害情報を伝えられて「まだ幼い子供達や元気で社会貢献している人々がたくさん犠牲になっているのに、生存の可能性が低く社会復帰も未確定な今の自分が何で生かされているんだい?」と、声に出して自分に問うてみました。が、応えを声には出せませんでした。

白血球数が基準値まで回復すると一般病室へ戻りますが、赤血球と血小板の輸血は続いている場合もあり、病棟内では輸血を受けながら入院生活を続けている患者さんを時折見かけます。そもそも急性骨髄性白血病の場合、輸血が無ければ寛解(ひとまず白血病細胞が検出されなくなる状態)導入療法を受けられないまま亡くなってしまうのですから。

順調に白血球数・赤血球数・血小板数が基準範囲になり体調が元に戻ったら(私の場合は約4週間のサイクルでした)、計画通り次の化学療法が始まります。この治療と回復を繰り返し、十数回にも及ぶ骨髄穿刺検査(必須なことは解っていますが苦手)や髄注(脊髄腔に直接抗がん剤を注入する)などの治療も受けながら半年後に退院できました。

思い返せば治療の度に輸血が必要でしたから、私の場合は身体の総血液量(体重の1/13、約8%)の約2倍の輸血をしてもらえたからこそ化学療法を受けることができたのです。その輸血製剤は本県名だけで無く、隣県どころか更に遠い県名のも有りましたので、患者ながら血液製剤の自給不足に不安を感じました。近年献血を呼びかける案内を目にすることが多くなりましたが、献血者が減って輸血製剤が足りなくなれば、まさに救える命も救えなくなるのです。幸いなことに私は、震災により流通が滞っている期間があったにも拘わらず必要な輸血を受けることができ、治療を継続してもらうことができました。

後から聞いた話では、3人の息子達が率先して献血に協力し始めたことと、そのうちの一人は骨髄バンクへも登録しようとしていることでした。私は今まで二回しか献血したことがありませんし今後はできませんが、息子達が父親の病気治療を機に献血の重要性を感じ取ってくれたことに心温まり思わず涙もこぼれました。

2025年の3月(白血病と診断されて14年目)に、主治医から再発の警戒期間も終了したことを告げられました。私は化学療法により白血病を克服できたのです。そしてその治療は輸血が無ければ受けることができなかったのです。

現在は仕事も再任用期間終了で退職し、孫の成長を喜んだり、趣味である軟式野球を選手・審判員として楽しむ毎日ですが、あの入院・闘病生活があったからこそ今生きていれるのです。それは医師をはじめとする病院職員の皆様はもちろんですが、献血~血液製剤を精製し昼夜を厭わずに届けて頂いた赤十字血液センター職員の皆様、そして何といっても貴重な時間を割き献血してくださった献血者の皆様には心から感謝いたしております。どこの誰かは全く分からない献血者の皆様の温かい善意によって今があることを忘れずに、授けて頂いた第二の人生をゆっくり歩んでいきます。本当にありがとうございました。

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