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所長ごあいさつ

所長ごあいさつ(平成30年5月)

徳島県赤十字血液センター所長

5月です。窓から見える眉山は新緑に映えています。新しい人たちは仕事に慣れてくるとともに疲れが出てくる頃ではないでしょうか。
「志望校にやや馴れてきて五月病」(折原あきの)

先日、徳島県美馬市の光泉寺境内にある「アインシュタイン友情の碑」を訪ねました。それは竹林に囲まれてひっそりと建っていました。桜は満開。暖かい日で、微風が心地よく、また人懐っこい猫の出迎えも心和むものでした。アルベルト・アインシュタインから寄せられた肉筆の追悼文が刻まれたこの碑は、この地で生まれ育った世界的外科医・三宅速(みやけはやり)夫妻の墓石です。

1922年アインシュタインは日本を訪れています。彼はこの訪日を非常に楽しみにしていたようです。日本国民も希代の学者の来日を心待ちにしていました。アインシュタインを乗せた日本郵船・北野丸は1922年10月8日にフランス・マルセイユ港を出て神戸港に向かいました。彼はこの船上で、1年間保留されていた1921年度のノーベル物理学賞受賞を知らせる電報を受け取ります。受賞理由は「光電効果の法則の発見」に対するもので、有名な相対性理論に対するものではありませんでした。

その理由の一つは、純粋に学問的な理論である相対性理論が第一次世界大戦後のドイツでは政治的に意味を持つようになっていたことです。熱狂的なドイツ国家主義者は、戦争敗北の原因を内部の裏切り者(主にユダヤ人や平和主義者)によるものだとしまた。アインシュタインはユダヤ人で第一次世界大戦を批判していました。相対性理論の正しさはすでに実証されており、内容は理解できないながらも大衆の間で話題になるほど有名になっていました。しかし、その実証は敵国イギリス人によるものでした。スウェーデン王立科学アカデミーは、相対性理論に対してノーベル賞を与えることは、自身が政治的動きに巻き込まれる恐れがあると考えて授与することを躊躇していました。打開策として、理由を「光電効果の法則の発見」とし、さらに授与を1年間遅らせたのです。実質上は、相対性理論に対するものと考えられています。

この北野丸で一つの出会いがありました。航海中にアインシュタインは持病の肝臓病が悪化し、船医が治療にあたりましたが好転しませんでした。そこで、半年間に渡る欧米視察を終え帰国のため乗り合わせていた九州帝国大学医学部外科教授・三宅速に診察を依頼しました。二人は共通の友人を通して乗船時に挨拶を交わしていたのです。三宅は、アインシュタインに対して船上での過ごし方、船医に対しては処方について助言を行い、アインシュタインの病状は回復しました。これをきっかけに二人の親交が始まり、アインシュタインは日本滞在中に三宅の自宅を訪れています。その後も頻繁に手紙のやり取りを行っていますが、アインシュタインがナチスからの迫害から逃れてアメリカに亡命後は音信が途絶えました。1945年三宅は岡山の長男・博宅で空襲に遭い、妻・三保とともに亡くなりました。

三宅の死を知ったアインシュタインから追悼文が送られてきました。それはタイプライターで打たれたものでしたが、長男・博は、父・速が保管していたアインシュタインからの手書きの手紙や原稿の文中から同じ単語を探し出して追悼文を肉筆に変換して両親の墓碑に刻み込みました。(比企寿美子著「アインシュタインからの墓碑銘」より)

ここに 三宅速と その妻 三宅三保が眠る。
彼らは共に 人類の幸せのために尽くし
そして 共に その人類の過ちの 犠牲になって逝った。

米国プリンストンにて  1947年3月3日
アルベルト・アインシュタイン

残念ながら今もテロや紛争による犠牲者が毎日のようにでています。ニュースを聞くたび何もできない自分に歯がゆさを感じます。

そんな私が言うのもおこがましいのですが、献血は身近にできるボランティアです。輸血を必要とする患者さんがたくさんいらっしゃいます。どんな思いで輸血を待っているかを想像して欲しいと思います。そして、あなたの献血で助かる命があることを知って欲しいです。

徳島市では今年も5月4、5、6日に全国からアニメファンが集まる「マチ★アソビ」が行われます。血液センターも献血バスを配車し参加させてもらいます。毎年、たくさんの若い人たちが献血に協力してくれています。ありがたいことです。どうか天気に恵まれますようにと祈っています。

平成30年5月吉日
徳島県赤十字血液センター 所長 浦野 芳夫

*光電効果とは光が物質にあたると電子が飛び出す現象をいう。光は波と考えられていたが、それでは説明できない光電効果の事象が観察されており、光を粒子(光量子)と考えれば説明できるとした理論で「光量子仮説」ともいわれている。

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