1952年(昭和27年)4月10日、日本赤十字社東京血液銀行業務所が開業してから4年後、1956年(昭和31年)5月8日、大阪府赤十字血液センターは、大阪赤十字病院内に大阪赤十字病院付属大阪輸血研究所として誕生し業務を開始しました。売(買)血風潮の時代背景の中で、当初の血液取り扱い方式は献血・買血の併用でした。赤十字は献血の受け入れが前提でしたが、献血思想が一般にまだなじみのないこの時代は、輸血用血液の確保を買血に頼らざるを得なかったのです。
1962年(昭和37年)当時、国内での保存血液使用量は年間約60万リットル以上になっており、しかも、その約99%以上が売(買)血で賄われていました。しかし、頻回採血による有償供血者の健康阻害、売(買)血による輸血用血液の質の低下、血液の売買をめぐるトラブルなどの問題は、ますます深刻化していました。大阪府赤十字血液銀行〔1962年(昭和37年)、病院より独立、大阪輸血研究所を改称〕は、このような状況をかんがみ、当時の買血万能時代に、血液不足の困難を覚悟の上で赤十字の基本精神に立ち返り、全国に先駆けて買血を中止し、献血(預血的運用を含む)へと一本化しました。
またこの年、大阪に初めて(日本では2番目)の移動献血車「よど号」が配備されました。「よど号」は大阪府はもちろん、各県に移動献血車が配備されるまで、遠く奈良県、和歌山県、兵庫県へも足を延ばすなど、善意の献血の輪を少しずつ広げていきました。
一方、全国的な売血追放機運の中、大阪府においても、学生団体・労働団体などが中心となって献血運動を展開し、1964年(昭和39年)5月より実施の「大阪府献血・預血推進月間」の運動と相まって大きな盛り上がりを見せました。そして、同年8月21日、政府はついに献血の推進について閣議決定を行いました。これにより、献血受け入れを委託された日本赤十字社は、早速、血液センター規則を制定し、全国に血液センターの開設を進めることになり、大阪府赤十字血液銀行もこの時、現在の「大阪府赤十字血液センター」という名称に改められました〔1964年(昭和39年)12月〕。
昭和40年代は閣議決定後の10年間として、売(買)血の追放に象徴される商業血液銀行の終焉、変わって赤十字による献血100%の念願達成という、血液事業躍進の画期的な時代であったといえます。
大阪においては、1965年(昭和40年)5月、公募による愛称「くれない号」と名付けられた2台目の移動献血車が稼動を開始したのを皮切りに、同年10月、第1回の出張(オープン)採血の実施、そして、1968年(昭和43年)には、大阪府内主要市民病院内への採血出張所の開設など、献血受け入れ体制は急速に整備されていきました。これに伴い大阪府は、1964年(昭和39年)9月に発足した大阪府献血推進協議会の下部組織として、市町村単位の献血推進協議会の設置を進めるとともに、1968年(昭和43年)3月には、地域組織の育成を図るため、財団法人大阪府献血協会〔1989年(平成元年)3月、解散〕を設立するなど、献血推進組織の基盤づくりを着々と進めていきました。
そして、1969年(昭和44年)9月25日、大阪府警察門真運転免許試験場内に「古川橋出張所」(門真献血ルームの前身)を開設し献血の受付を開始しました。
昭和40年代前半には、買血から撤退したものの、まだ預血を扱う商業血液銀行が多く見られましたが、献血の台頭に伴い徐々に姿を消していき、1970年(昭和45年)8月には大阪から完全に姿を消し、輸血用血液は100%献血で確保されることになりました。
1964年(昭和39年)当時、12,806人だった献血者数は、1970年(昭和45年)には136,800人と約10倍に増加し、検査・製剤に膨大な業務量をもたらしたため、1971年(昭和46年)8月、大阪府赤十字血液センターは現在地森之宮へ移転しました。
献血による輸血用血液の確保が安定するのと並行して、輸血医学は着実に進歩を遂げていきました。昭和40年代より、医療機関での新鮮血液の需要が急速に増加してきたことは、今までの保存血液では活性を失う血小板や凝固因子などの血液成分を求めてのことでした。
大阪府赤十字血液センターでは以前より、成分輸血こそ医学の進歩に沿い、献血者の善意にこたえる最善の道であると提唱してきました。昭和50年代には、当時類書のなかった成分輸血の解説書をシリーズで発刊し、これを大阪府内のみならず各地の血液センターを通して全国の医療機関に配付して、さらに積極的なPRに努めました。
1978年(昭和53年)1月には、プラスチック製の血液バッグによる採血を全面的に導入し、より安全性の高い成分製剤の製造を可能にするとともに、翌1979年(昭和54年)12月、多様化する血液製剤を採血から供給まで適正に管理するコンピュータ・システムを導入しました。
こうした努力が実を結んで、1975年度(昭和50年度)、大阪府の血液製剤総供給数のうちで成分製剤が占める割合はわずか11%にすぎなかったものが、1980年度(昭和55年度)には89%と急速な伸びを示しました。
特にまれな血液型の研究分野で、不断の努力を重ねてきた大阪府赤十字血液センターは、まれな血液型の需給でも中心的役割を果たすようになり、国内ばかりでなく、外国にもまれな血液を供給しています。
大阪府赤十字血液センターにおける検査用試薬の開発の歴史は、1981年(昭和56年)4月にHBs抗原検査用試薬の製造・供給を開始し、以後、各種検査用試薬の開発、製造に着手してきました。1990年(平成2年)4月からは、抗D血液型判定用モノクローナル抗体を製造し、全国の血液センターに供給しています。
昭和50年代後半になると、職域や地域での集団献血だけでなく、交通が利便な駅・ターミナルなどでの街頭献血の定例化が進み、献血者確保の上で大きなウエートを占めるようになりました。しかし、年々激化する交通混雑のため、都心部での駐車スペースの確保は徐々に困難になり、移動献血車に代わる新しい献血受け入れ施設の必要性が高くなってきました。
1981年(昭和56年)7月、「心斎橋献血ルーム」はこうした問題を一気に解消する施設として開設されました。「献血ルーム」というソフトなイメージの愛称を冠し、献血者の利便を最優先してターミナルに常設された施設の登場は全国でも初めてのことで、若い人にも気軽に出入りしてもらえるような雰囲気、会社の昼休みや退社後にも立ち寄っていただけるような時間帯の設定など、工夫を凝らしたものでした。
1982年(昭和57年)4月、献血手帳から供給欄が削除され、患者さんを包む社会の一人ひとりが自らの責任と自覚で血液を提供していく社会的な献血へと転換されました。これに先立って、1982年(昭和57年)1月、大阪府赤十字血液センターは、献血・輸血という生命を救うための尊い行為にかかわるすべての人々、広くは社会全体が一つの輪になって献血を推進していくことを目的に、月刊広報誌「Circular OSAKA」〔1999年(平成11年)1月より隔月発行〕を創刊しました。
1982年度(昭和57年度)は、献血手帳改正の影響を受けてか、今まで順調に伸びてきた献血者数が前年度を下回りましたが、それでも森之宮へ移転した1971年(昭和46年)ごろの3倍近い、410,144人の方々にご協力いただきました。移転当時、全国一の採血・製造規模を持つといわれた社屋も狭隘化が進み、1983年(昭和58年)3月、地上8階・地下1階の近代的なビルディングとして生まれ変わりました。
1983年(昭和58年)11月1日、大阪市北区の大阪駅前第1ビル内に「大阪駅前第1ビル献血ルーム」を開設しました。
1984年(昭和59年)11月、茨木市に北大阪赤十字血液センターが、翌1985年(昭和60年)3月には、貝塚市に南大阪赤十字血液センターが竣工し、森之宮の血液センターと合わせて3つの血液センターが、より地域に密着した事業を展開することになりました。
また、ドライバーの皆さんが運転免許の更新時などで気軽に献血にご協力いただける場所として親しまれてきた「古川橋出張所」が改築になり、1985年(昭和60年)2月18日、軽量鉄骨造2階建ての門真献血ルームとして新たにオープンしました。
1986年(昭和61年)4月からは、厚生省の血液事業検討委員会の報告に基づく新しい献血方法が採用され、400mL献血と成分献血の受け入れを開始することになりました。特に、血しょう分画製剤の国内自給を達成するためには、成分献血の普及が不可欠で、より多くの方々にご協力を求めていくことになりました。
そこで、1987年(昭和62年)11月、心斎橋献血ルームを阿倍野区に移転し、府内で初めて成分献血にもご協力いただける献血ルームとして「あべの献血ルーム」をオープンさせました。さらに、1988年(昭和63年)6月には、大阪府堺市に「堺東献血ルーム」を開設し、成分献血に快適にご協力いただける常設施設の整備を進める一方、職域・地域での出張採血にも成分採血装置を携行し、通常の献血会場の一角でもご協力いただくなど、成分献血をより身近なものとしていただけるよう努めてきました。
しかし、新献血方法を導入してしばらくは、全国的に若者層を中心とした献血離れの現象が見られました。「献血はすべて新しい献血方法に変わってしまったのでは」、また「献血の針からエイズに感染するのでは」といった誤解が原因だったようです。日本赤十字社ではこのような誤解を取り払うため、献血者への一声運動などさまざまなキャンペーンを展開した結果、1985年度(昭和60年度)をピークとする献血の下降傾向は、1988年度(昭和63年度)にようやく歯止めがかかりました。
試薬の開発と製造については、大阪赤十字病院構内の旧血液センターにおいて行ってきましたが、施設の老朽と狭隘が甚だしいため、試薬製造棟の新設が待ち望まれていました。そこで、大阪府赤十字血液センター現社屋につなぐ別館を1992年(平成4年)3月に建設、移転しました。また、より安全な輸血用血液を確保するための新しい検査方法、検査項目の追加や輸血用血液に対する放射線照射など、血液事業において次々と出される新しい施策に対応するために、検査部門および製剤部門の構造設備の充実が必要なことから、大阪府赤十字血液センター新館が1998年(平成10年)11月に完工しました。
血液事業における血液製剤の安全性の向上と技術レベルの均一化を図るとともに、効率的、合理的な血液センターの経営を行うためには業務の集約化が必要となり、1994年(平成6年)10月1日、森之宮・北大阪・南大阪赤十字血液センターの検査部門を森之宮センター1カ所に集中した新しい検査体制に変更し、月平均約42,000検体(平成5年度実績)を取り扱う検査業務を同年10月24日採血分から開始しました。
2004年(平成16年)4月1日には、森之宮・北大阪・南大阪赤十字血液センターの製造部門を森之宮センター1カ所に集中した新しい製造体制に変更し業務を開始しました(全献血血液の森之宮搬送は3月26日採血分から実施)。また、大阪センター内だけにとどまらず、近畿における広域的な業務の集約化を行うための検討も行い、その第一弾として、当センターは和歌山県赤十字血液センターとの検査業務の集約化を2001年(平成13年)8月1日から実施しました。
その後、奈良県赤十字血液センターを2005年(平成17年)12月1日に、京都府赤十字血液センターを2006年(平成18年)3月28日に、滋賀県赤十字血液センターを2006年(平成18年)4月1日にと順次各血液センターの検査業務を集約し、2008年(平成20年)3月31日に実施した兵庫県赤十字血液センターの検査業務集約をもって近畿2府4県の検査業務すべての集約が完了しました。
また、平成18年11月20日から和歌山県赤十字血液センターの製剤業務を集約いたしました。
1989年(平成元年)10月3日、成分献血の可能な「京橋献血ルーム」〔1991年(平成3年)9月19日、採血ベッド6台から10台に改装〕が開設、1990年(平成2年)4月6日には「あべの献血ルーム」が採血ベッド10台を有する大型採しょうセンター「あべのフェスタ献血ルーム」に移転開設し、同月25日には「日本橋献血ルーム」を新たに開設しました。また、1991年(平成3年)3月26日には、「大阪駅前第1ビル献血ルーム」が成分献血もできる献血ルームとしてリフレッシュオープンしました。同年10月5日には、「阪急茨木市駅献血ルーム」が誕生するなど、成分献血受け入れ体制の整備に努めました。
また、1994年(平成6年)10月5日、以前より開設が待ち望まれていた枚方市方面での献血受け入れ施設「京阪枚方市駅献血ルーム」がオープンしました。1996年(平成8年)6月1日には、効果的に全血献血を確保するため、全国でも一、二を争うほど人通りの多い心斎橋筋に「心斎橋小大丸献血ルーム」を開設、1998年(平成10年)4月には、泉北高速鉄道泉ヶ丘駅前に「泉ヶ丘献血ルーム」を開設しました。これにより、大阪府内の常設の献血受け入れ施設は13カ所(血液センター3カ所・献血ルーム10カ所)となりました。
そして、1996年(平成8年)3月4日、大阪府門真運転免許試験場の庁舎新築に伴い、門真献血ルームを新庁舎別館1階に移転し、規模を拡張しました。これを機に、受付時間を延長し、日曜日(第5日曜日を除く)も開設するとともに、成分献血の受け入れを開始しました。
狭隘になった献血ルームの移転としては、1999年(平成11年)10月1日には、堺東献血ルームを南海高野線堺東駅前の大和銀行(現:りそな銀行)堺ビル5階に、2000年(平成12年)3月1日には、大阪駅前第1ビル献血ルームを延床面積約3倍のスペースが確保できる阪急グランドビルの25階(「阪急グランドビル25献血ルーム」と改称)にそれぞれ移転し、ゆったりとした気分で献血していただけるよう努めました。
そして、かねてより要望の多かった受付時間の延長を一部の献血会場を除いて2002年(平成14年)10月1日から実施し、それに伴い、献血ルーム等の定休日も変更いたしました。
また、輸血用血液の在庫が逼迫(ひっぱく)すると予測されたことからその確保に向けて、成分献血主体の泉ヶ丘献血ルームを2003年(平成15年)3月31日をもって閉鎖し、人員・設備等を移動献血車の充実に当てることとしました。これにより、大阪府内の常設の献血受け入れ施設は12カ所(血液センター3カ所・献血ルーム9カ所)となりました。
そして、移転拡張した「阪急グランドビル25献血ルーム」も見晴らしのよさ、居心地の良さなどから献血していただく方々が増加し、待ち時間の増加とともに休憩スペースも手狭となりました。そこで、それらの問題を解決し、皆さんにくつろいで献血にご協力いただけるよう、受付・ロビー、採血室とも1.5倍以上の広さに拡張し、2004年(平成16年)10月1日、リニューアルオープンしました。
2005年(平成17年)9月26日には、全血献血専門の心斎橋小大丸献血ルームを閉鎖し、開放感にあふれた西梅田献血ルームを2005年(平成17年)10月3日に新規オープンさせました。これにより大阪駅前エリアの東西に2つの献血ルームを設置することし、献血者の利便性を図りました。
また、2007年(平成19年)2月1日には地下鉄日本橋駅構内の改築工事に伴い、日本橋献血ルームを改札口から近く、わかりやすい場所に移転させ、明るく柔らかなイメージの献血ルームとしてリニューアルオープンいたしました。
2010年(平成22年)9月1日には、今までとはまったく異なる新感覚の献血ルームを難波にオープンさせました。この献血ルームは、献血してくださる方にリラックスしていただける空間を目指して作られ、コンセプトは、水の都大阪にちなんで「水辺の眺めのいい部屋」、名前も大阪で親しみを持って交わされる感謝の言葉「毎度ありがとうございます」から「まいどなんば献血ルーム」と名づけました。
2011年(平成23年)11月23日には、平成元年10月のオープンから23年にわたり、献血者の皆様にご利用いただいておりました「京橋献血ルーム」を心斎橋OPA南隣、御堂筋ビルに移転し、「御堂筋献血ルームCROSS CAFE」としてオープンしました。「御堂筋献血ルームCROSS CAFE」は、若年層をターゲットに、『人に優しい献血ルーム』をコンセプトとしています。エンターテイメントや赤十字の様々な情報を発信するためのイベントスペース、スタジオを設置し、カフェのように自由に気軽に立ち寄れ、快適でくつろげる空間を演出しました。立ち寄った人が、人や社会とのつながりを感じ、自然な形で社会貢献(献血)に参加できる新しいスタイルの献血ルームを目指していきます。
2013年(平成25年)4月4日には、平成2年4月から23年間、献血者の皆様にご利用いただいた「あべのフェスタ献血ルーム」をあべのハルカス南側岸本ビル3階に移転し、「あべの献血ルームKiZooNa」としてオープンしました。「多種多様な生物の命がこの場所でひとつにつながる」をコンセプトに自然と地域の特性を取り込み、だれもが入りやすく、親しみがもてるような献血ルームを目指していきます。
1994年(平成6年)4月1日、大阪府赤十字血液センターでは本番稼働に向けて準備を進めていた血液事業統一コンピュータ・システムの運用を開始しました。
このコンピュータ・システムは、1994年度(平成6年度)中に全国の血液センターで本番稼働されました。
そして、1999年(平成11年)5月12日より稼働を始めた献血者全国一元管理システムは、災害およびコンピュータの負荷や故障などによるトラブルを考慮し、データを管理する同一のコンピュータを中央血液センター(東京都)と大阪センターの2カ所に設置しました。通常、東日本の血液センターは中央血液センターのコンピュータに、西日本の血液センターは大阪センターのコンピュータにアクセスし業務を行うシステムでした。そのため、万一、どちらか一方のコンピュータにアクセスできなくなった場合は、瞬時に他方のコンピュータへ切り替わり、業務を続けることができるようになっていました。
しかし、血液事業を支える血液事業統一コンピュータシステムは稼働後10年目を迎え、業務の変革に伴う仕様変更や業務量の増大など当時のシステムでは対応しきれないことから、血液センターの集約化、広域化を見越した今後の血液事業のあるべき姿への変化にも対応できるように検討が行われ、2004年(平成16年)1月から第二次血液事業統一システムの導入が全国の血液センターで順次行われ、大阪府赤十字血液センターは副集中管理センターとしても稼働するとともに、6月20日から同システムの運用を開始しました。
平成24年4月には、血液事業統一システムを刷新し、「血液事業情報システム」として、経理機能と用度管理機能の一部が先行稼働しました。続いて、献血・採血管理機能、製造管理機能、販売管理機能、情報統計機能が段階的に稼働し、平成26年6月には全国稼働が完了しました。
1995年(平成7年)1月17日、阪神地区を襲った阪神・淡路大震災では、「何かの役に立ちたい」「自分にできること」として多くの人に献血に駆けつけていただき、地震直後の各献血会場には献血者の長蛇の列ができるほどで、1月、2月の献血者数は前年度の同月と比較して、129.8%、119.0%の伸びを示しました。
今後このような災害や緊急の事態に十分対応していくためには、短期的・集中的に血液を確保するのではなく、血液成分それぞれに決められた有効期間を考慮して、長期的・継続的な献血へのご協力が必要であることを、マスコミなどを通じて府民に伝えました。
東京都の調査によれば、50歳以上で輸血用血液の80%以上を使用しており、今後さらに少子高齢化社会が進み、輸血を必要とする人口が増加し献血可能年齢層の人口が減少していく状況を考えると、献血可能年齢層はもちろん、献血年齢に達していない年齢層にも献血意義の普及と推進を図るための広報も重要課題となっています。その一方策として、当センターでは1996年(平成8年)から夏休みの小学生を対象とした血液センター見学会を実施し、献血の必要性と血液センターの役割への理解を深め、献血や血液に興味をもってもらえるよう努めています。
また、2002年(平成14年)1月26日には近畿6赤十字血液センターが主催して「臓器移植と輸血~21世紀の血液確保について~」と題して公開シンポジウムを移植医や移植を受けた方々と共に開催しました。
そして、血液製剤の適正使用を推進するためには、各医療機関に設置されている輸血療法委員会との協力体制を確立する必要があることから、大阪府赤十字血液センターは2000年度(平成12年度)から大阪府との共催により輸血療法委員長会議の開催に取り組んでいます。
さい帯血の応用範囲が拡大し、今後医療において重要な役割を担うであろうさい帯血移植事業ではありますが、人口約2,050万人を抱える近畿2府4県は人口集積地でありながら日本さい帯血バンクネットワークに加盟しているさい帯血バンクが一カ所(兵庫さい帯血バンク)しかありませんでした。そこで、大阪府内および京都府内の医療機関や血液センターなどが中心となって、2002年(平成14年)3月に京阪さい帯血バンクを設立しました。そして、2003年(平成15年)3月には日本さい帯血バンクネットワークの全国11番目の施設として加入が認められた後は、順調に実績を伸ばしていき2006年(平成18年度)には日本一の臍帯血提供数・移植数を誇るさい帯血バンクに成長しました。
しかしながら日本赤十字社の決定により2011年(平成23年)4月から、さい帯血バンクはブロック血液センターに設置されることになり、2012年(平成24年)3月末を以て京阪さい帯血バンクは解散し、さい帯血バンク事業を日本赤十字社近畿さい帯血バンクに移管しました。それ以降の活動につきましては日本赤十字社近畿ブロック血液センターホームページをご覧ください。
日本赤十字社近畿ブロック血液センターの設置により大阪府赤十字血液センターにあった製剤・検査業務等担当部署は大阪府茨木市彩都に移転しました。さい帯血バンク業務を担う製剤三課は、日本赤十字社近畿ブロック血液センターに所属していますが現在も大阪府赤十字血液センターで業務を続けています。